新しいシャンプー

深夜、布団の中で消防車やパトカーのサイレンを聞き続けるとき。
家の前で車の接触事故を見たとき。
朝、カーテンの隙間から太陽の光が漏れていないとき。
ソファでうとうとしていたら金縛りにあったとき。
家にいるのになぜか落ち着かないとき。

ひとつひとつの出来事は小さくても、続けて起こるとちょっとずつちょっとずつ暗い方へ気持ちがひっぱられそうになる。今週はそれが続いていた。

ええい、こんな時はアレに限る。私は浴室に向かい、この間買い換えたばかりの新しいシャンプーを手に取った。

ピンク色のクリアボトルに、白いイラスト。ナチュラルな雰囲気のパッケージ。香りはなんだったっけ。普段は皮膚科でもらった洗浄力の弱い無香料のシャンプーを使っているけれど、最近は調子がよいので自分でシャンプーを選んだのだ。自宅仕事になって以前より服やものを買わなくなり、久しぶりに自分のために買ったものが、これだった。

思いきり泡立てて勢いよく髪を洗うと、ペパーミントと何かのまざった心地いい匂いが、浴室いっぱいに広がる。それを鼻からいっぱい吸い込み、こめかみから頭のてっぺん、後頭部、首の付け根まで、しゃくしゃくと手を動かしてよおく洗う。もう一度鼻からすーっと息を吸い込んで、泡をしぼりとった後、シャワーを全開にして勢いよく流した。

洗ったばかりのTシャツに着替えて濡れた髪をごしごし拭いていると、髪の一本一本の通りがずいぶん良くなったのを感じる。見えない膜がとれたようで、ひっぱられそうだった気持ちも少し戻ってきた(ような気がする)。


一番大きな看板をみていた

今朝、ある時期お世話になった人から連絡があった。そのメールの内容が気になって、家事をきりのいいところで終えて、きのうと似たような紺色の服を着て、その人の住む最寄り駅まで行った。乗り換えでは自然と小走りになった。

彼女の顔を見たら、思ったより元気そうだったし、なつかしい笑顔にほっとした。ああ、とにかく会えてよかったと思う反面、かすかな違和感をおぼえた。それは向かい合って座っているだけでふくらんでいくので、なんだか落ち着かない。会うのがひさしぶりだから? 彼女が髪を明るく染めていたから? 私が太ったから? いつもと違うカフェだから? BGMが大きくて居心地が悪いから? 頼んだレモネードが思った以上にすっぱいから? 全部本当で、全部ちがう。

ふたりの間にある空気は、以前とは別のものになっていた。なじみのある、わかりあった心地よいあの空気は、もう過去のラベルを貼った固い箱に入れられたのだ。

ある短いひととき、私たちの心はたまたま同じ方向をむいていて「今度こそ自分が大事にしたいものから目をそらさずに生きよう」と約束した。心がゆらぐたびに励ましあって、会うたびに美味しいコーヒーを飲みながら、きっと大丈夫と言い合っていた。私は書くこと、彼女は彼女の大事なものから、今度こそ目をそらさないと約束した。遅れてやってきた青春みたいだった。

でも、人の気持ちは日々変わっていく。夢だって、優先順位だって、考え方だって変わっていって当然だ。彼女が変わっていくのを止める権利はだれにもない。だけど、なんだか無性にかなしくてさびしくてやりきれない気持ちになる。今日きいた彼女の決意が、本人の意志だとはどうしても思えなかったから。いや、思いたくなかっただけなのかもしれない。

私は最後に会った時よりずっとはっきり自分の意見をいうようになったと思う。彼女のゆがんだ表情をみると、ここまで言っていいのだろうかと迷うけれど、今言わなくちゃ後悔するような気がして、夢中で喋った。伝えたことは全部本当の気持ちだけど、どうしたらよかったのか、なにが正しいのか、正しさなんてあるのか、今もわからない。

ぎこちない笑顔でさよならをして、改札に入ってホームに立ったまま、何本か電車をやり過ごした。足が動かない。視界に入る中で一番大きな看板をみていた。夏の。お茶。涼。

無意識にカバンの中をさぐりイヤホンを出して、音楽をシャッフルでかける。1曲目に流れたcoccoの「強く儚い者たち」をきいて、やっと私の足は動き出した。電車に乗ると、彼女といた場所からどんどん離れていくのを実感した。