透明人間をやめる

平日の昼間、スパ施設に来る人間は少ないのだろうか。大浴場にいるのは、なぜか私ひとりだった。
黒湯はコーヒーみたいな色をしていて、手ですくうと少し透ける。かすかに感じるとろみが、けば立った心をやさしくなでてくれるようで心地よく、ふしぎな安心感があった。
ガラス戸のむこうにある露天風呂のたよりない湯気をみていたら、最近ぼんやりと頭の中にあったものの輪郭が少しずつはっきりとしてくるのを感じた。

ネットで文章を書くとき、私はついあたりさわりのないことを書こうとしてしまう。繊細さ、やわらかさ、温かさを織り交ぜて、なんとなく耳に心地よいおさまりのよい文章を書こうとする。書いていて恥ずかしいけど、正直そういうことを考えている。
自分が本当にそれを書きたいならいい。けれど、本心はちがう。肝心な部分をおおって書いた結果、味気ない文章ができあがるのは当然だ。
「かたい」「殻にまだこもってる」とnoteを読んでくれる友だちに直接言われたとき、自分をさらけ出していないということは相手にも伝わるんだと思った。会社にいた頃も、一緒に仕事をしている人に似たようなことを言われたことがある。

「かしこまってる」
「いつも緊張してる」
「本音をいわない」
「殻にこもってるみたい」

その頃は、とにかく自我のようなものがじゃまで仕方なかった。
私はいちいち大げさに感じ取るところがあるので学生時代に「感動屋」とからかわれたこともあったけど、社会に出てからは感情が飛び出してくるたびにワニワニパニックのようにひとつずつ叩いて、ひっこめて、心が無になるように努めていた。そのためなら平気で嘘もついた。

積極的に自分を叩いていくことで、平穏な社会人生活を続けられると思っていた。本気でそれが正しいと思っていたし、実際、そうすることでしか続けられなかった。
その結果どうなったかというと、私はどんどん透明になっていった。

当たり障りのないことを言う、良くも悪くも害のない、面倒くさいことは言わないかわりに本音も言わない。いてもいなくても変わらない、わからない、透明人間。

どこか開き直って「やることはやってるんだから文句はないでしょう」と思っていたけれど、実際はとっつきにくかったり、内面のジレンマが漏れ出て一緒にいる人の居心地を悪くさせていたことも多かったと思う。そういういやな開き直り方は一緒に働く人たちにもどこかで伝わっていたような気がするし、やっぱり自分の感情も死んでいった。会社員だった頃、最後の1年以外はそんな風に過ごしていた。

染みついた脳内ワニワニパニックを、私はネットで文章を書くときにも無意識のうちに続けているのかもしれない。でも、自由に表現できる場で自分を偽るようなものをわざわざ書いてなんの意味があるのだろう。私が書くのは、書きたいのは、そういう日々の中で溜め込んで来たジレンマだ。人に見せらないドロドロした感情も含めた、いつまで経っても決着がつかない問題がいっぱいある。