ステーキと山月記

先週末、「いきなり!ステーキ」へいった。
最近糖質オフにはまっている夫が仕事の昼休みによく通っているというステーキのチェーン店で「サクッといきなり食べて次の店へ! というスタイルを提案します。」という言葉どおり、立ち飲み食いでサッと食べて出るというスタイルのお店だという。

わたしは普段ほとんど牛肉を食べないけれど、肉をもりもり食べてサッと店を出てくるという話を聞くのは楽しかったし、「いきなり!ステーキ」という時速200kmみたいな勢いのあるへんてこな名前も気になった。
期日前投票を済ませてから近くの店舗へ入ると、まだ昼前だというのに店内はずいぶん混んでいた。椅子のある席と立ち席が半々。わたしたちは椅子のある席に案内された。
「カウンターで肉を注文してください」と番号札を渡されたのでそれに従い、電車のなかで相談して決めた言葉をいう。

「サーロイン200gください」

カウンターの店員さんはその場で分厚い肉を取り出し、でっかい包丁で豪快に切り出した。はかりに乗せると、210g。

「少し多いですがこちらでよろしいでしょうか」

さわやかな笑顔につられて頷いたけれど、豪快な切り方と肉の塊にわたしは圧倒されていた。普段肉を見るのはスーパーくらいで、当然あんな大きな塊はみたことがない。人間よりはるかに存在感があった。
夫はリブロース300g、「コーンをインゲンに変更、ブロッコリー追加でお願いします」と慣れた口調で注文していた。
席に戻って待っていると、あちらこちらの席に焼きたてのステーキが運ばれてくる。鉄板の上で肉が焼ける音が、理性の奥を刺激する。食欲とはちがう(けどなんなのかよくわからない)なにかが、自分をあおってくる感じがして落ち着かない。なに、なんなのこの感じは。ねえ。
言いたかったけれど、夫は普通にわくわくして待っているようにみえるので、わたしも平静を装う。けど、まったく落ち着かない。

そして、わたしたちのもとにもステーキがやってきた。
夫は慣れた様子でナイフとフォークをつかって分厚い肉を切っていく。豪快なんだけど品があって、美味しそうで、楽しそうに食べている。なにをしてもスマートなのでうらやましい。わたしは道具をつかうのが下手で、さっそくナイフを滑らせてコーンをテーブルに散らしたりしている。それでも鉄板の上で肉をぎりぎりと切って夢中で食べる。ひとくち、またひとくち。紙エプロンをとるまで、わたしたちはそれぞれの肉に夢中になった。

前菜なしで、肉の塊をぎりぎりと切って食べるという行為は、本能をゆさぶる。国とか民族とかいう線引きのなかったころの人間の原点、大陸で獣を捕まえてそれを焼いて洞窟で食らいつく、みたいな本能を強引に思い出させるし、そちらへひっぱられそうになる。
自分の中の秩序が乱れるというか、いろんなルールを染み込ませて随分奥の方に押しやっていた本能が揺さぶられるような感じがして、くらくらした。

店を出てから夫にきいた。
「これ食べてから午後仕事する気になる?」
「うん」
「人間をやめて全部捨ててどっか走っていきたくならないの?」
夫は「山月記みたい」だといって笑っていた。
「くらくら」と興奮を同時に味わいながら、駅までの道を歩いた。こんな感覚はひさしぶりだった。