ハードロック

ひとりで仕事をしていても、流す音楽がハードロックだとすごくドラマチックな気持ちになることを知った。

頭のなかがにぎやかになる。


ほしいものはそのときに買う

ほぼ日の5年手帳、ほしいなーとおもっていた。

今度ロフトに行ったときに実物をみて買おうと思っていたんだけどなかなか出かける機会がなく、昨日ようやく渋谷にいく用事が出来たのでいってみたら、すでに売り切れていた。店員さんの「品切れで…」という言葉に、何度も口にしてきたような慣れた雰囲気を感じた。

わあすごい人気、じゃあネットでと思ったらそちらもすでに品切れで、次回販売分の発送は、3月上旬になるそう。

「ほぼ日5年手帳」情報室

3月まで待とうかと思ったけれど、やっぱり2018年の年明けから使いたかったので泣く泣く見送り、別の3年手帳を買った。5年続く自信がなかったので、3年くらいがちょうどいいかもしれないということにして。

この1年で物欲というものがすっかりおさまって、以前は定期的に欲しくなっていた服とかバッグとかを、今年はほとんど買わなかった。自宅勤務になって必要なくなったというのもあるけれど、自分のセンサーが以前ほどそちらに反応しなくなったというのもある。

そんななか、5年手帳はびびびときたのに、ぼやぼやしてしまった。いいなと思った気持ちと行動を起こすまでのタイムラグを、来年は少しでもなくしたい。次は何にびびびとくるんだろう。


布団のなかでよむ本

週のはじめの不調をひきずり、きのうも家にこもっていた。

オットは飲み会だということだったので、夕方自分の晩ご飯をはやめに済ませると、また布団という名の巣穴にもどった。

ときどき枕元のちいさいライトをつけて、乱雑に積まれた本の中から文庫本をえらんだ。きのう読んだのは、村上春樹が80年代のアメリカでの生活を描いた「やがて哀しき外国語」。

てきとうに開いたページからよみはじめると、アメリカの郊外に住むということ、大学の学生のこと、音楽のこと、スーツを買うのが面倒だったことなどを村上春樹は語ってくれた。
その語り口が絶妙で心地よいのは言うまでもないけれど、物語とちがって伏線がなくただ水を飲むようにごくごく読んでいける内容や、読み飛ばして好きな場所から読んでも問題ない自由な感じが、今の自分の目や耳にはやさしくかんじた。

旅行への興味が薄いからか、ふだんは旅行記とか滞在記みたいなものはほとんど読まず、よっぽど好きな作家のものでも避けてしまいがちだったけど、布団の中にいながら「ここ以外の場所」の空気に自由に触れられるのは心地よかった。風邪をひきやすい季節でもあるし、もし同じように布団の中でじっと回復を待っていて、でもちょっと本が読みたいという人がいたらおすすめしたいです。


パンダがこわい

上野動物園のパンダ、シャンシャンの一般公開がはじまった。

地面をころがる子パンダが画面に映るたび、視線をそらし、チャンネルをかえ、テレビの電源を切る。

わたしはパンダがこわい。

※以下は個人的な妄想です。

パンダって、すごく人をよくみているとおもう。どうしたらみんなが喜ぶのか、かわいいと思ってもらえるのか、どんな仕草が人の心をつかむのか、愛されるのかを、たぶん地球上で誰よりも知っている。

絶妙なタイミングでころんところがってみたり、人の足にずるずるとすがってみたり、見えるように笹を食べてみせたり、時々ちらと意思疎通ができているかのようにこちらに視線を送ってみせたりするのは、すべてパンダの計算によるもの。わたしたち人間はそれにみごとに翻弄されている。

だってそもそも、あの配色は奇跡としかいいようがない。顔だけみても、耳と目とまわりだけがくっきり黒って、そんなばかな。そんな美しく完成されたお顔はほかの動物ではみたことがない。かわいい。かわいすぎる。かわいくできすぎていておそろしい。意図を感じざるを得ない。

けれど、そのかわいさに騙されてはいけない。あの黒く塗りつぶされた目の周りの真ん中あたりをじっとよおくみてほしい。
一番だいじなものを隠すかのように覆われた黒い毛のなかに、つぶらな瞳がある。その目を、よく、よくみてほしい。パンダの方も、そこをあまりみられたくないと思っているはず。

パンダは、ものすごい目をしている。見た目が似ているクマなんかとはくらべものにならない。瞳の真ん中を焼くように鋭く刺してくるその目は「知っているぞ」と語っているようでもあるし「こういうことだろう」と挑発してくるようでもある。

パンダは何か企んでいるのかもしれない。この世界はパンダに握られているのではないかもしれない。そうおもうと、胸がざわざわする。かわいさに騙されてはならないと全身に力が入ってしまう。

というのはちょっと言いすぎだけど、それほどにパンダという動物はかわいさを追求されていてこわいと思ってしまう。


疲れは遅れてやってくる

12月11日(月)に「年末まで毎日日記を書こう」と思い立った。今日で1週間。一応続いている。
最初に宣言せずにはじめたのは、宣言したことに満足して結局やらないことが多いから。zineをつくるとかフリーペーパー再開するとか、今までいくつ同じようなことがあっただろう。やりたいって今でも思っているけど、はい、いつになるのか。

12月上旬までは、ばたばたしていた。頭の中でずっとひとつのことを考え続けて手を動かしていた。一区切りついた先週の日曜日の夜、明日からは少し落ち着いて暮らせる、徐々にペースをもどしていこうと思ったけど、頭の興奮はなかなかおさまらず、てっぺんまで昇ったままの熱が冷めるのに思った以上に時間がかかった。だから先週は5日も走ってしまったのかもしれない。夜中に目が覚めるのも一度や二度ではなかった。

週末はのんびり過ごした。ついにうちにもやってきたニンテンドースイッチでマリオカートをしたり、本屋さんで好きな本を買いなおしたり、おいしいものを食べたり。そうしているうちに、ようやく12月上旬の「疲れ」がやってきた。

わたしはまず「肌」にでる。じんましんが復活したり目の周りが腫れたり、顔半分が真っ赤になったり。「疲れた」っていうのを自分に禁じていたところがあったけれど、皮膚の様子をみてやっぱり疲れてたんだなあとおもう。心より体の方がずっと素直で正直だ。

この「皮膚にでる」というのが、会社に通っていたころは本当に苦痛に感じていたことも思い出した。皮膚の症状って命に関わるわけじゃないし休むほどでもないと軽くみられがちだけど、かゆみが続くのは本当にストレスだし、目に見えてわかる症状というのはメンタルに与える影響がとても大きいと思っている。私は幼少期からアトピーで、特に中学生の頃本当にひどかったことは今でも自分の心身につよく影響をのこしているとおもう。当時はよく脱皮する夢をみていた。

今週はおとなしくしていよう。水曜日は出かけるけれど、それ以外は年末までの仕事を早めにおさめつつ、じっと本を読んだりして自分の調子を徐々に取り戻していきたい。